INTRODUCTION

まだ「未来」
なんていってんの?

ビーチェラ・ケンドリック・さよなら未来

TEXT BY KEI WAKABAYASHI
ILLUSTRATION BY NATSUJIKEI MIYAZAKI

2018.04.19 THU

未来」ということばをみると無条件に反応してしまうのは一瞬の職業病のようなものだ。WIRED』という未来志向のメディアに7年携わっていたせいで、そうなってしまった。といって、それはたとえば、SZA」の名前をみつけて「おっ!」と目を輝かせてしまう、そういう嬉しい反応ではない。むしろ苦手な人の名前をうっかり目にしたような、ざらっとした感触。

そのことばも、それを背後で支えている考え方も、そもそもまったく好きではない。けれども、それを考える仕事についてしまった以上、考えないわけにもいかない。そして早々に気づいた。未来というのは、なんと20世紀的なコンセプトなんだろう。そして、ここに、もれなく貼り付いてくるテクノロジーということばの、なんと「近代」なことだろう。で、このふたつは、なんでこうまで自動的にワンセットなんだろう。未来を考える、即、テクノロジーを考える。日本では、ことさらそうだ。テクノロジーがもたらす輝かしい未来。って、それ、1970年のコンセプトだろう。そんな未来、とっくに終わってるぞ。と、いくら言っても効き目はない。多くの人、そして企業は、いまだ50年前の思考回路のなかでぼんやり黄昏れている。1964年の亡霊なぞも引っ張り出しながら。

よくなかったのは、デジタルテクノロジーがそうした痴呆状態から目を覚まさせるものとしてではなく、むしろそれを存続させるのに手を貸してしまったことかもしれない。おかげで、テクノロジーの進展の波にうまく乗っかってればとりあえず未来はくる、という幻想はさらに深く根をはった。なのに、世界的なその波に国をあげて乗り損ねてしまったから目も当てられない。うまくやってるよそさまを見て募る焦燥は、ほかの大事なことそっちのけにしてまで、最新テクノロジーへと(特におっさんたちを)走らせる。

病理、とさえ呼びたくなるそうした思考回路とだいぶ長く付き合ったせいで、未来」ということばを聞くたびに「おまえもか!」いい加減にしてくれ!」と反射的に身構えるようになった。なにせ、この仕事に関わりはじめた最初の頃から、そんなんで大丈夫なのか?と、ずっと言ってるのだ。『さよなら未来』を読んでいただければわかる。ほんとうに、最初からずっと、なのだ。疲れるなというほうが無理。うんざりするなと言われてもする。

ところが、ありがたいことに、ここに来てがぜん風向きが変わってきた。

デジタルテクノロジーが約束したところのシリコンバレー式「素晴らしき世界」は、まったくの空手形であったことが明らかになりつつあり(世界中がそれに乗せられたわけだから、ぼんやりした日本がだまされるのはいたしかたない、それがもたらした混乱の後始末こそが、むしろ喫緊の課題となる。そこではもはやテクノロジーは主題ではない。ネットがもたらした分断や憎悪を乗り越えるためのお題目として、世界最大のテックカンファレンスSXSWは今年、エンパシー(共感」ということばを連呼しなくてはならなかった。

#MeToo をどう評価するかは議論はあろう。が、それがもたらしたものは決して小さくない。この2月に、北米・欧州の45の音楽フェスティバルが、2022年までに出演者のジェンダーバランスを50/50とするという誓願に名を連ねた。つまり音楽フェスについては、すでにわかっている「未来」があるわけだ。男女比が半々になる。となればギターやターンテーブルを手にする女子は増えるばかりだろう。音楽の世界を女子がドライブするのが当たり前な未来。4月14日のコーチェラで、ビヨンセがコーチェラ史上発の黒人女性ヘッドライナーとして降臨し、超弩級のパフォーマンスを見せたのは、そのためのノロシのようなものだった。

そして、その神がかりなパフォーマンスの翌日。アメリカのジャーナリズム・文学における最高権威であるピュリッツァー賞は、ケンドリック・ラマーを今年の音楽賞の受賞者に選んだ。つまり、文学を志すこと、ジャーナリズムを志すこと、ラッパーを志すことが、社会的価値として等価であるような「未来」が、ここからはじまるわけだ。賞をあげた人間のなんて勇敢なことよ。世界中の音楽好きの少年少女たちに、その勇気が、どれだけ豊かな未来を授けることか。

あるいは、こんなニュースもある。世界で最も保守的な国と言われてきたサウジアラビアが大胆な開放政策を打ち出し、女性のスポーツ観戦や観劇を認めたのみならず、首都リヤドで初めてのファッションショーが開催されたというのだ。その模様をレポートしたニューヨークタイムズの女性記者は、そうしたムーブメントを支えているのは、欧米で教育を受け英語をばりばり話す、インスタ使いのいまどきの女性たちだと伝えている。さらに、サウジアラビアは今後、観光にどんどん力を入れていくという。新しいカルチャーやツーリズムのデスティネーションとしてサウジが絶大な人気を誇る未来だってもはや想像の範囲内だ。

新しい世界を再想像するための種は探せばみつかる。少なくとも海外では確実に増えている。ただし、それはテックの領域においてではない。むしろカルチャーだ。未来を考えることはテクノロジーを考えることである幻想」にまどろんだアタマで無理矢理でっち上げた「未来」をこねくりまわしているうちに、世界の風景はどんどん変わっている。先日北欧で訪ねたほとんどのコワーキングスペースのトイレは、当たり前のようにジェンダーフリーでしたよ、とか。風景が変わるということは文化が変わるということだ。もちろんそこにテクノロジーは大きな寄与をしている。ただし、それはあくまでも遠景の地紋としてだ。

ハイレゾのアナログヴァイナル」なるものが、来年に市場に投下されるという面白い話もある。オーストリアのスタートアップが開発した新しいテクノロジーは、音の再現性を格段にあげるばかりか、収録時間も30%も長くするという。しかも現行のターンテーブルで再生可能。デジタルとアナログの二項対立を無効化する鮮やかな発明。未来の暮らしのなかには、当たり前のようにレコードプレイヤーがあるのかもしれない。けれども決して忘れないように。この技術がインパクトをもつのは、アナログレコードが、すでに世界的にひとつのカルチャーとして、新たに大きく根づいたからだ。テクノロジーはいまむしろカルチャーを後追いしている。

結局のところ、テクノロジーはそれが文化となる道筋を得てしか社会のものにならないし、そうならない限りビジネスにだってならない。そろそろ、みんなそのことに気づこうよ、てか気づかないとヤバくない? てなことを、手を変え品を変え7年間言い続けた集積が、さよなら未来』という本だ。それは、フェイスブックやウーバーが窮地に立たされるのを横目に見ながら制作され、ビヨンセのコーチェラ(人呼んで「ビーチェラ)とケンドリックのピュリッツァー賞受賞の週に刊行された。刊行直後の週末にはレコードストアデイもあった。

ひとつの時代が終わり、またちがう時代がはじまる。なのに、まだ「未来」なんて言ってんの?

2018. 4. 19)