REVIEW

マガジン・エディターの技芸

池田純一が読んだ『さよなら未来』

さよなら未来』はいったいどういう本なのか?
著者の「若林恵」とはいったい何者なのか?
その仕事ぶりを『WIRED』日本版の寄稿者として
数年にわたって間近で見てきた
デザインシンカー・池田純一が明かす。

TEXT BY JUNICHI IKEDA
ILLUSTRATION BY NATSUJIKEI MIYAZAKI

2018.05.18 FRI

WIRED』に寄稿するようになって以来、彼のことは「ニューヨーカー」の精神を共有できる人だと思ってきた。もちろん、ここでいうニューヨーカーとは「ニューヨークを行き交う人びと」の意味ではなく、毎号洒脱な風刺画が表紙を飾る雑誌『The New Yorker』のことだ。

今では『WIRED』と同じくアメリカの出版大手Condé Nastの傘下にある『The New Yorker』は、小説家ならば誰もが一度は作品の掲載を夢見る文芸誌であり、同時にブロードウェイを擁するメディア都市ニューヨークに相応しく、文学、映画、演劇、テレビドラマ、音楽、スポーツなどを横断的に扱う批評誌だ。

さらに、その批評眼は、政治や経済、科学、社会問題にまで向かい、そうした社会事象の全てを大胆にも一つの文化作品と捉えた「時評=時代批評」として掲載する総合誌でもある。そこまで批評対象を拡げることで、あたかも一つの時代精神を掬い取ることができると確信しているようなのだ。そうして、ニューヨーク人らしいスノッブさ、ダンディズムを体現し続けてきた。

コロンビア大学に留学していた頃、このニューヨークという街がどれだけテキストで編み上げられたナラティブの街であるのか、何度も気付かされた。

イーストヴィレッジにある巨大古書店「The Strand Bookstore」の店内に積まれた膨大な書籍群、ミッドタウンの老舗「Barnes & Noble」に取り揃えられたシェークスピアを始めとした古典戯曲の山、あるいはマンハッタン島の対岸のブルックリンに点在するインディペンデント書店群の個性的な取り揃え。そこには、観たもの聴いたものは何であれ、まずは文字で書き留めないではいられない使命感とでも言うべき、決して威圧的ではないけれど)凛とした雰囲気があった。The New Yorker』は、そうした言葉を通じて世界を捉えるニューヨークの人びとの行動習慣を具体化した雑誌であり、だからこそ「ニューヨーク人」というタイトルを掲げている。

今回、さよなら未来』を読みながら、若林くん」もこういう空気が好きなんだろうな、と改めて思った。彼の場合は、書籍に加えてニューヨークの雑踏に流れる数多の音楽に対しても、同じように惹かれていることもよくわかった。そうして、どういう形であれ、なにか新しいものが創り出されることに、ニヤニヤと喜びの眼差しを向けてしまうことも。そうした心持ちの下で、The New Yorker』のような総合批評誌に、結果として「彼のWIRED」は挑戦していた。

日本版」の三重苦

それにしても、なぜ『The New Yorker』なのか?」と首をかしげる人もいるかもしれない。それは寄稿者の一人として5-6年余りの間、様子を見てきたものからすると、WIRED』日本版は、3つの制約条件、いわば三重苦の中で製作を余儀なくされていたように思えたからだ。

第一に、ウェブの普及の裏で進んだ「雑誌の停滞、特にカルチャー誌の低迷。第二に、日本における「AV家電事業の衰退。第三に、アメリカと日本との間に横たわる社会的コンテンストの違いに伴う「翻訳上の困難

結果的にこれらの制約は、日本版」が、部分的に『The New Yorker』のような文芸ジャーナリズムのトーンを纏うことを促し、同時に正当化していたようにも思う。

一番目の「雑誌の停滞」には細かい説明はいらないだろう。10年くらい前と比べても大手書店で平積みされる雑誌の数はてきめんに減っている。あってもその多くはビジュアルが重視されるファッション誌である。電車に乗って周りを見渡しても、乗客は皆スマホをいじっては覗きこむばかりで、雑誌や新聞はおろか、文庫すら持ち歩いている人は稀だ。

ここで『WIRED』にとって厄介なのは、ITやイノベーションを推奨する側として創刊されたため、こうした紙媒体の衰退は、むしろ自分たちの主張の妥当性を認めるものとして、まずは歓迎しなければならないところだ。けれども実際には、フィジカルな雑誌としての成功も求められる。そこでカルチャー誌が減った分、いつの間にか文化の領域を一つの切り口にするようになったように思える。実際、多くの読者が関心を寄せるのは、ハイテクによる殖産興業などであるはずもなく、身近な自分たちの生活のコンテキストがどう様変わりするのかにあったはずだからだ。

だがその時に一つ困るのが、二番目に挙げた「AV家電事業の衰退」だ。

これは2016年に「ワイアードTV」という特集号に寄稿した際にはっきりと意識させられたことなのだが、90年代であれば「未来のテレビ」を取り扱う際に日本メーカーの動向が絡んでこないことなどありえなかった。グローバルにそれだけの存在感をもっていたからだ。しかし、2010年代は全く異なる。もちろん、個々の企業としては有望な高付加価値技術の開発に的を絞り、そうして世界の工場たる東アジアの製造業エコシステムの一角を占めることで十分なのだろうが、しかし、エンド商品としての消費財からの撤退は、未来の社会をどう描くかといった「未来語り」への参加権を失うことに等しい。

こうした日本市場の特殊事情は、第三の「翻訳」の問題とも関わってくる。まずは本家『WIRED』のお膝元であるシリコンバレーで発案される「未来構想」を輸入/紹介した上で、それらの日本市場でのさしあたっての落としどころを考える、という所作を取らなくてはならない。

だが、英語から日本語へ、ただ翻訳するだけでは、残念ながら、オリジナルの文章が書かれた本家『WIRED』をとりまくアメリカの状況まで自動的に説明されるわけではない。言うまでもなく、アメリカと日本の間では常に時代状況のズレがある。

特に2010年代の半ば以降、ITで世界的成功を収めたシリコンバレーにおいて、研究開発や投資の関心が「ポストIT、すなわちバイオテック、ロボティクス、宇宙開発などに向かったあたりから、米日の間の違いが際立ってきた。結果的に、アメリカで喧伝された「未来構想」については「上げて落とす」評価が増えてくる。要するに「なんかスゴイことのように最初は思えたけど、よくよく考えると日本にはあまり関係ないよね」という落ち着き方だ。この感じは、直近であれば「シンギュラリティ」や「ブロックチェーン」などを思い出せば理解できるだろう。

だが、ここで雑誌的感性からみて大事なのは、シンギュラリティ」や「ブロックチェーン」という概念の評定よりも、なぜ、どのようにしてそのような概念が生み出され、あまつさえ事業化まで図られようとしているのか、その発想を駆り立てるものの探究であるはずだ。それは直接的に文化的差異に連なるものだろう。

多分、この数年、編集者の彼自ら、イギリスやエストニア、あるいはドイツやイスラエルなど、世界各地のハイテク(・カルチャー)の視察の旅に出かけたのも、放っておけばアメリカと日本のコンディションの違いの指摘にしかならない不毛さに興味を失ったからなのではないか。少なくとも僕はそう理解している。アメリカはスゴイ、日本は遅れてる、あるいは「アメリカはダメで本当は日本こそ進んでいる」のような二国間の優劣に帰着するような紋切り型の議論に嫌気が指していたからだと思う。そこには文化として育てていこうという視線は感じられない。そんな中、アメリカと日本の間に第三項として異なる国の事情を添えてみることで、もっとクールに状況を眺めることができるのでは、と感じていたのではないか。

いや、もっと直接的には、Spotifyのあまりの上陸の遅さに、日本だけが世界の音楽シーンから完全に遊離していることに業を煮やしていた彼からすれば、それこそ岩倉使節団のごとく文化鎖国ボケの打破のために行動しただけなのかもしれないけれど。

テクノロジーとカルチャーの往還

ともあれ、このような状況は、本来的に「旬の話題を扱う」雑誌には厳しいものだ。書籍のようにアメリカの本をまるごと訳して売り出せばとりあえず仕事は終わり、売れるか売れないかはお客さん次第.....とはならない。雑誌の場合、複数の記事を取りまとめるというプロセスが挟まれる以上、編んだ」誌面に対して、一定の評価を下す必要に迫られる。それが『WIRED』の場合、巻頭に掲げられた編集後記としての序文であり、その別バージョンとしてのウェブでの寄稿であった。

さよなら未来』には、それらの文章が多数収録されている。けれどもこの本を手にとって読む人たちに一つ注意を促したいのは、この本の多くの文章、とりわけ後半の文章は、編集長・若林恵が、毎号の編集を終えて記した奮戦記であることだ。つまり一つ一つの文章の背後には、100ページを超える誌面の情報や内容が控えており、その中身を編集長として誰よりも深く理解した上で書かれた文章でなのである。

もちろん、先ほど指摘した「翻訳」の問題から、結果的に、特集内容に対して「上げて落とす」ような、ピリリと山椒が効いたような批評的文章が目につくところはある。けれどもそれとて、俺たちは何でもかんでもイノベーション万歳!とか言ってる脳天気な奴らとは違うからね、という断り、つまりはポーズの表明でしかない。

実際、各号を最初から最後まで目を通せば『WIRED』日本版といえども、なんだかんだ言って、未来に対してポジティブに、それこそ技術によって「Better Future」を築こうという姿勢に共感していることは明白だからだ。

本質的に「創る」ことに極めて肯定的であり、そしてひとたび「創る」ことに関心を寄せれば、テクノロジーを排した創造/創作が無意味なこともわかる。だから、テクノロジーかカルチャーかという二択など本来的に無意味だ。楽器なしには音楽はありえない。エレキギターとアンプの発明なしに野外コンサートもなかった。なにか新しいものの登場に常に関心を寄せる彼が、そのような、テクノロジーとカルチャーの往還(フィードバック)を無視するはずがないのだ。

レトリックとしての人文知

このあたりが、この本に対して「人文知」という形容がなされるのに違和感を覚えるところだ。そこまでのアカデミックなニュアンスはないし、意図されてもいない。確かに人文知に分類される専門用語や人名は多数登場するけれど、それらはあくまでも彼が自説を組み立てていくためにとりだした素材/部品に過ぎない。雑誌編集者なら当然の勤勉な多読家から生まれた自家薬籠中のレトリックなのだ。

それは彼自身、さよなら未来』の中で「コンテンツという言葉に対する誤解」としてサラッと記していることだけど、コンテンツとは必ずしも「素材」を意味するわけではない。彼が言うように、料理人にとってのコンテンツとは、寿司」や「イタリアン」のように調理・加工に関わるものであり、つまり一つ一つの「料理」とそれらを組み立てた「コース」こそがコンテンツに当たる。イワシや牛の頬肉は、あくまでもコンテンツを構成する素材に過ぎない。

そしてこの見方にならえば、雑誌編集者にとっては、あくまでも特集記事と連載記事などを束ねた毎号の一冊の「完パケ」こそがコンテンツであって、その「完パケ」を構成するテキストや写真・イラストは、いずれもイワシや頬肉同様、素材に過ぎない。当然、テキストの中で言及される「人文知」も、他の「科学知」や「技術知」同様、素材にとどまる。要するに、言及されているからと言って、特定の知識そのものが重視されているわけではない。編集者/料理人にとっての成果物=コンテンツとは、あくまでも「完成した雑誌」/「料理」なのである。

もちろん、お客を前にして料理人の口から、このジビエはどこそこ産で最高に美味い、という言葉が出ることもあるだろう。けれでも、それはとどのつまり、自分「だけ」ではこの料理はつくれなかった、という謙虚さの現れでしかなくて、彼が称賛として求めるのは、そのジビエをつかったローストの上手さであり、ソースの妙であるはずだ。

同様に、僕らも、編集者・若林恵を賞賛するにあたって、彼が素材として引用した人文知だけを取り出してどうこう言っても詮無い。それらの言葉を使ってどのように議論が構成されているのかにこそ、注目しなくてはいけない。彼の編集者としての腕前は、彼の単著とは別に、彼が編んだ雑誌でこそ判断されてしかるべきなのだ。

だからこそ、彼はデザイナーや写真家、イラストレーターに対して極めて高いリスペクトを払う。雑誌においてビジュアルの構成は圧倒的に誌面の印象を変えるからだ。

僕自身、自分が寄稿した原稿がどんな「誌面」としてレイアウトされてくるのか、ゲラが出てくるのが毎回楽しみだった。

効果的なタイトル、記事の中身を予感させるリード、小見出し、年表や資料の挿入、あるいは鍵となるビジュアル。雑誌を手にとった読者がページを繰る際、目にとまるよう、文章からの印象的な「抜粋」を効果的に配置する。時には、見開き2ページの片方が全面、写真やイラストで占められたこともあった。そんな大胆なレイアウト=構図の中に配置されると、書いた本人からしても自分の原稿が違ったものに見えてくるから不思議だ。そこには確かに元のテキスト以上の「余白」が生まれている。編集者から差し込まれた新たなコンテキストが重ねられている。よくオペラは総合芸術だと言われるけれど、それ同様に雑誌の誌面にも総合芸術性が宿るのだ、と感じることが多々あった。

第2列」のアート

このように、編集者は、毎号、雑誌に小宇宙=ユニバースを顕現させている。それこそが、コンテンツ」だからだ。まずは外枠を定めて、その中身の配置を決める。そうして、ひと流れの演目=プログラムを創ること、それがエディターの役割だ。

であれば、誤解を怖れずにいえば、エディター/編集者という呼称は、雑誌編集者のみが名乗るのを許されるべきだろう。その場合、単行本の)書籍編集者は「書籍制作者、ウェブ編集者は「ウェブ編成者」とでも名乗るべきだ。どちらも一定の空間的・時間的制約の中で、すなわち「外枠」と「締切」が定められた中で、複数の素材を一つにまとめあげるようなものではないからだ。

書籍の場合は、著者の原稿が基本的に全てであり、もちろん、装丁やゲラの手配はあるが、それらはあくまでも進行上の管理業務に過ぎない。ウェブの場合は、マガジンといいながらひと塊の「雑誌」のような制約はなく、仮に特定のサイトの下で公開されたとしても、即座に記事単位の「放流」が始まり、実質的な流通はソーシャルメディアやキュレーションサイトが左右する。記事単位でバラバラに流通するのみで、そこに「編集方針」のようなものを想像する手かがりはない。

こう見てくると雑誌編集者とは、世に〈司令塔〉と呼ばれる人たちに近いといえる。オーケストラにおける指揮者(コンダクター)であり、映画における監督(ディレクター。いや、雑誌製作の現場が足下の状況に常に左右されることを思うと、スポーツを引き合いにした方がよいのかもしれない。ゲーム全体の流れを作ることを最優先しながら、必要とあらば、また好機とあらば、みずから点を取りに行くプレイヤー。サッカーにおけるミッドフィルダー、バスケットにおけるポイントガード、ラグビーにおけるスタンドオフ。要するにゲームメイクができる人。

編集者というのは、まさにラグビーにおけるスタンドオフのように、スクラムやモール、ラックなど、人もボールもぐちゃぐちゃになった密集地帯から、ボールを拾い出し、そこから次の局面を作るような人たちのことをいうのだと思う。

その比喩でいけば、同時に、人文知と総称される最先端の知恵や知見を、後方にのほほんと構える普通の人たちに、厳選した上で届ける役割。つまりは、フロントラインの直後に控える「第2列。その機能を強いていえば、工学的で建築的な実践知だ。機能は「メイキング」であり、その限りで、多分、「サイエンス=知」というよりも「アート=技芸」の側にある。

雑貨屋店主の売り口上

これは、今どきのウェブ系の「整頓された知」や「検索可能な知」から知のイメージを持ってしまった人たちには想像しにくいことかもしれないけれど──だから「昭和的」と言われればそれまでなのだけれど──、知」とは本来、もっと猥雑なものだったはずなのだ。

もともと雑誌の「雑」は猥雑の「雑」で、それは図書館に整然と分類された書籍とは異なり、既存のジャンルには分類不能の「ミソレイニアス」と呼ばれるもの。ミソレイニアス=miscellaneousという言葉自体、mix=混ぜる」を語源にしているから、単に分類不能なだけでなく、混ぜ合わせた結果の混淆物だったと解釈することもできる。そのような曖昧さを扱う、少なくとも混沌を装うのが、雑誌文化の根底にはあった。それは、マガジン=magazineという言葉そのものにも見て取れる。magazineは、もともと「お店」や「貯蔵庫」のことで、前者は百貨店を意味するフランス語の「グラン・マガザン(grand magasin」に残っているし、後者はアサルトライフルなどに銃弾を装填する「弾倉」がマガジンと呼ばれるところにも残っている。

だとすると編集者というのは、いわば雑貨屋の店主であり、編集者による巻頭言とは、さしずめ「今週の目玉商品」の売り口上、身も蓋もない言い方をすれば、読者の気を引くための惹句に過ぎない。そこで仮に人文知に属する知識や薀蓄がもっともらしく語られたとしても、それはあくまでも客引きのための、いわば一種の見せ金にすぎない。雑誌編集者というのは、その限りで「香具師」なのである。適当な口上で人を惹きつける輩なのだ。

だがその上で、彼が面白いのは、書ける編集者」でもあるところだ。

書ける編集者」とは、一つの文章で全てを書きつくすことはできない」ということを、自身の経験から知っている人。だから、文章の密度や緩急にまできちんと目配りができる。この「書ける」という要素は、寄稿する側からすると信頼感がさらに高まるところといえる。というのも「書ける編集者」は、書き手の苦労や苦悩のツボについても同じ視点で理解しているからだ。関心があっても自分が書けること、書けないことがあるのを弁えている。

こうした感覚は極めて重要で、こうした感覚がないと、たとえば校正といっても単純に表記の修正をするくらいのことしか行えなくなる。彼が、編集者向け教育講座を開催しているのも、かつての雑誌編集者なら身につけていて当然の基本動作ができない編集者もどきが増えているからなのだろう。

とまれ、一人の書き手としての彼の姿についても、さよなら未来』の中で確認することができる。その多くは、音楽に関わるエッセイであり、そこでは予想できたことではあるけれど、難しいビッグワードはほとんど影を潜めて、彼自身の感想や考えが、彼自身の経験に即した言葉で記されている。

そこにあるのは文芸であり学芸だ。つまり「創ること(=文芸」であり、考えること(=学芸。ともに「芸」という言葉が伴っているように、彼が行ったことは、編集にしても執筆にしても、彼の個人的体験・経験から生まれた技芸=アートなのである。

本家のアイデンティティ・クライシス

ところで先ほど、WIRED』日本版は三重苦を抱えていたとは言ったけれど、とはいえ本家『WIRED』がしっかりしてさえいれば、その本家のスタンスに対してどのような姿勢を取るかで編集方針の大枠を予め組み建てることは可能だった。

この点で2016年のアメリカ大統領選は転機となった。というのも、それ以来、本家の『WIRED』も随分ブレてきているように見えるからだ。少なくともトランプ大統領が誕生して以後は、それ以前のように、イノベーションこそ正義、という認識を無条件に掲げることは難しくなった。シリコンバレーの迷走は、その代弁者である『WIRED』にも及び、ハイテクやイノベーションに対するスタンスも曖昧になった。その結果、WIRED』自体、アイデンティティ・クライシスに陥っている。

だから、彼の手によるプリント版の最終号の特集が「アイデンティティ」であったことは当然といえば当然の成り行きだった。出来すぎなくらい自己批評的だった。その際、哲学者の國分功一郎や当事者研究の熊谷晋一郎に注目したのも徴候的だった。

特に『暇と退屈の倫理学』の著書もある國分は、ハンナ・アレントに言及しながら、暇や退屈」に押しつぶされて無自覚なまま第三者の命令や指示を求めたりしないよう、精神的な貴族性の復活を提唱している。個人的にはそのように理解しているのだけれど、その貴族的精神とは端的に審美眼や美意識のことであり、それはスノッブさやダンディズムの肯定として、そのまま冒頭で紹介した『The New Yorker』の編集姿勢へと繋がる。ハンナ・アレントが、後に『イェルサレムのアイヒマン』となったアイヒマン裁判のレポートを寄稿したのも他でもない『The New Yorker』だった。知らず知らずのうちに、文学や詩作を愛好する彼は、國分功一郎を介して『The New Yorker』へと回帰していたのだ。

そしてそれは、最後の最後でイヴァン・イリイチが持ち出されたこととも呼応している。

イリイチへの回路

イリイチの詳細な経歴についてはググってもらうとして、僕が面白いと思ったのは、彼が座右の銘としているという)静けさはみんなのもの」というイリイチのエッセイであり、このエッセイは本家『WIRED』の迷走を前提にすると、いろいろと示唆に富んでいる。

まず、ここで「みんなのもの」と訳されたのはCommonsのことであり、エッセイの中でイリイチはこのCommonsという概念をResources(資源)と対比させて用いている。これは、まさに資源化=私的所有化/市場化の権化としてのビジネスマンが大統領になった現代でこそ教訓的だ。

80年代初頭に発表されたこのエッセイは、来日したイリイチが朝日新聞で行った講演がもとになっており、そこでは世界のResources化に抗するCommonsの守護者として、日本のエレクトロニクスメーカーや政治家に期待していると述べられていた。

興味深いことに、このエッセイが公表された媒体は、スチュアート・ブランドが『Whole Earth Catalog(WEC』の次に創刊した『CoEvolution Quarterly(CQ』であった。グレゴリー・ベイトソンも寄稿していたように『CQ』は、70年代の生態系や宇宙開発を巡る想像力などを扱い、WEC』と比べ、思想性/批評性により傾斜していた。それは60年代の喧騒を受けて、様々な意味で自信を喪失した結果、内省の時代を迎えた70年代のアメリカを象徴するような内容であった(CQ』の詳細については拙著『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』を参照して欲しい。もともと、ブランドの弟子筋に当たるケヴィン・ケリーらが始めた『WIRED』からすれば、アイデンティティ・クライシスに陥った時に真っ先に振り返るべき参照先の一つなのである。

不思議なことに、当時のブランドが州知事のブレインとして仕えたジェリー・ブラウンは、今また民主党選出のカリフォルニア州知事として、様々な社会政策について、共和党選出のトランプ政権と真っ向から対決する姿勢を示している。あるいは、CQ』と同時代にエネルギー危機の本質について論じ、最近では『限界費用ゼロ社会』を出版したジェレミー・リフキンは、今ではEU、特にドイツに活躍の場を移している。こうしたことは、今のアメリカがどのような状態にあるのかを端的に示してはいないか。

なによりイリイチが、システム批判者として注目を集めた70年代は、さよなら未来』の中でしばしば取り上げられているように、音楽こそがその代表的な「反動」の手段だった。その精神は、今年のコーチェラのビヨンセにまで受け継がれている。

もともとカトリックの神父であったイリイチは、過ぎたるは及ばざるが如し」と考える人で、最初は良かれと思って始まったものでも、ある臨界点を超えることで逆の効果をもたらすと捉え、システムの暴走を警戒する。今で言えば、シンギュラリティを支える「加速原理」と対立するような考え方であり、こうした点でも、実はタイムリーな人物だ。

イリイチが批判の対象とするものは、人間による制度的構築物全般であり、ひとりテクノロジーだけが批判の対象となるわけではない。イリイチへの回路を開くことは、このようにかつてあった一つの巨大な時代認識を励起することに繋がる。

けれども、今僕らが気にかけるべきは、そんなタイムリーな人物を、まさにこのタイミングで差し出してしまえる編集者・若林恵の嗅覚だ。これは、翻訳して輸入すればこと足れりとする書籍制作者や学者の発想とは大きく異なる。自分が面白いと思ったもの、興味深いと思ったものを、いつかどこかで必ずつかってやろう、という心持ちで多読を繰り返す雑誌編集者だからこそ為せる技なのである。

ハーロックの黒鳥

僕が『The New Yorker』の精神を共有できる人として信頼した「若林くん」は、このようなヤマッ気に富んだ人物だった。ウィリアム・ギブソンの「未来はすでにここにある。だがどこにでも、というわけではない。(“The future is already here, it's just not evenly distributed yet.”」という言葉を信じて世界を旅する彼は、その意味で、実は「未来」に多大な関心を寄せているし、その未来の文化を築くための新たな礎となるテクノロジー、すなわち「人間の工夫」に希望を見出している。その工夫には想像力が必要だが、それを与えるのが、レトリックやイマジネーションの表出である文学であり詩作なのだ。彼は、未来」という概念に、もっと陰影(ニュアンス)のあるものを求めている。

つまるところ、彼にとっては、文学の創造、すなわち「新しいナラティブ」の提案こそが最優先される。でも、いつかは文学を書きたいと思わない編集者なんているのだろうか。心が震えるならなんでもよい。不思議なことを教えてくれるのなら何でも構わない。その面白さを多くの人に知らせてびっくりさせることが最高に楽しい。それが彼の綴りたい文学なのだ。そして、イマジネーションからなる文学とは、要は虚構=ウソの塊だ。でもウソをつけるのが人間の人間たるゆえんであり、虚構を描けるからこそ夢として未来を描ける。WIRED』という枷が外れた今、その舵取りに大いに期待したい。

なにしろ、彼は、さよなら未来』の出版パーティで、自身が立ち上げた新会社の「blkswn=黒鳥」という名を、ナシム・ニコラス・タレブの『ブラック・スワン』から取ったんですよと公式に説明したそばから、いや実はあの黒鳥、キャプテン・ハーロックの肩にとまっている、例の変な「トリさん」なんですよ、などといきなり嘯いてみたりする。そんな「はぐらかしの妙手」なのだ。

もっとも、ここまで記した「若林くん」の姿は、あくまでも僕の目に映ったものにすぎない。けれども、このトリさんの話の後にパーティ会場を困惑させた、アルカディア号のAIの魂は誰のもの?」というトリビアな問いに対して、いやそれはトチローでしょ」と内心で答えていた僕は、以前にも彼と『幻魔大戦』といえばやっぱりソニー・リンクスだよね、などと同意していたりする。だから、意外とツボは共有していて、それほど彼のイメージも外してはいないのではないかと思っている。

池田純一|JUNICHI IKEDA
コンサルタント、Design Thinker。コロンビア大学大学院公共政策・経営学修了(MPA、早稲田大学大学院理工学研究科修了(情報数理工学。電通総研、電通を経て、メディアコミュニケーション分野を専門とする FERMAT Inc.を設立。ウェブ×ソーシャル×アメリカ』デザインするテクノロジー』ウェブ文明論』未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神』など著作多数。WIRED.jp」での連載が書籍化された『ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生 -ウェブにハックされた大統領選-』青土社〉も発売中。wired.jpにて書評連載も継続中。